浅野“ブッチャー”祥之とオレ


17年前、登校拒否児だったオレの「ギター習いたい」の一言に、母が縋る想いで門を叩いたのが、埼玉県上福岡市にある小さな音楽教室。エレキギター科。講師浅野祥之。

巷の音楽教室だった事もあり、特にカリキュラムなどなく、レッスンはほぼ生徒の好きな曲のコピーだった。当時は空前のバンドブーム。オレの憧れは専ら布袋やガンズ。後に国内屈指のセッションギターリストになろう人が、布袋の曲をコピーしながら「これ、すげーな」、ガンズの曲を聴けば「こいつらブルース知ってるよね」・・。とにかく生徒の憧れを肯定する人だった。


いつだったか、布袋のピックをくれた時があった。どうも仕事した現場が、前日布袋のライヴだったらしく、残っていたピックを生徒の為に持って来てくれたようだ。当時の布袋のライヴ会場規模と言えば・・。その時オレが思った事「先生すげーじゃん」・・何にも解ってない。


ある日、オレが言った一言でその後のレッスンが贅沢極まるものに変る。

オレ「ペンタトニックってなんですか?」

先生「吉野君凄いの仕入れて来たね」

その後、クロスロード/クリーム を先生から教わる事になる。

そして・・浅野“ブッチャー”祥之とのマンツーマンでのブルースジャム。

でも、当時のオレは自分の事で精一杯。何一つ盗めなかった。1m先に向かい合って浅野“ブッチャー”祥之がソロを弾いている。でもコード押さえるのに精一杯。今度はオレのバックで浅野“ブッチャー”祥之がバッキングしている。でもペンタトニック追うので精一杯。あの時間に戻りたい。


習っていた頃、レイヴォーンの事故死もあった。すぐメディアに踊らされてたオレは、早速レイヴォーンの曲を持って行った。「この人死んじゃったんですよね」と言うと、「偉大だからだよ」と先生。その言葉が今、やけにプレイバックされる。


家に招いてくれた事もあった。機材が並ぶ部屋にCDがいっぱいあった。500枚くらいはあったと思う。オレが眺めていると、先生「これ全部ブルース」・・。先生のデモ音源なんかも聴かせて貰った。ギタートラックのフェーダー上げたり下げたり、エフェクト掛けてみたり、色々オレを喜ばしてくれた。その後決して広いとは言えないダイニングでコーヒーを入れてくれ、確かラリーカールトンのビデオとか見せて貰った記憶がある。でも当時のオレには良く解らなかった。とにかく先生と居れるだけで楽しかった。


もうオレも当時の先生の歳に追いついている。もし今オレが音楽教室でバイトし生活切り詰めながらプロの仕事してたら、生徒に何してあげれるだろうか。やつれた表情の母親が連れて来た不登校の子供に、どう接してあげれるだろう。


そんな貴重な時間も約3年で終る事になる。先生の仕事が忙しくなると1ヶ月2ヶ月レッスン休みになる事はそれまでにもあったが、3ヶ月以上先生が戻れない状況が続き、音楽教室が講師の変更を決断・・。その後2,3回レッスン通ったものの、結局やめてしまった。


その後連絡出来ずにいたが、ちょうど二十歳の頃だったと思う、思い切って連絡してみた。すると早速ライヴに招待してくれた。習っていた頃もライヴに招待してくれた事はあったが、その時とは様相が違う。六本木ピットイン。青木セッション。ステージにはテレビで見た人もいる。斉藤ノブ。途中ゲストでチューブのベーシストも加わり、青木氏とバトル。その日はデヴィッドサンボーンナイト。サックスは若き日の勝田一樹だった。当時のオレにはその凄さを実感出来なかった。が、とんでもない人にギター教わってたのかも知れない、とやっと気付き始める。

それを機に、簡単に連絡出来ない、とバリアをはってしまっていた。約4年。24になった頃、自作のデモテープを先生に聴いて貰いたく、雑誌で先生の名前を探し、また六本木ピットインへ。一人暮らしを始めていたオレは、夜からバイトをしていた為、また先生に話し掛ける勇気もなく、お店スタッフにお願いし渡して貰う事にした。ライヴは観ずバイトへ。

すると翌日PM4時頃、デモテープに挟んでいた名刺を見て先生が電話をして来てくれた。「なに吉野君、来てくれたの?声掛けてよ」「デモテープ聴いたよ。凄いね〜」当時と変らないトーンで話してくれた。その後のライヴにまた招待してくれた。

数週間後、確かゴールデンウィークだったと思う。六本木ピットイン。先生の自己バンド“B-AND!”だった。先生が主役だ。今まで見たライヴとは違い、いつもの先生のトークがライヴを進行する。最高だった。
ライヴ後話もしてくれた。ただ、雑誌のカメラマンだろうか、オレと話をしている先生を横で撮影している。ただでさえ先生を前に舞い上がってる中、緊張して上手く話せない。ドラム沼澤氏もオレの事を「誰だろう」と言った表情で見ていた。目が合ったが挨拶するのも図々しく思え何も出来なかった。連休中の為先生の家族もそばにいた。先生が嬉しそうに紹介してくれた。でもまた上手く表現出来ない。最高のライヴだったのに、先生にも会えたのに、、先生にはオレの表情がどう映っただろうか。。


間もなく、J&Bが結成される。今までオレが通って来た音楽、先生から教わった事に直結するサウンドだ。その頃PCを購入していたオレは、新たにデモCDを作り、図々しくもまた渡しに行った。吉祥寺スターパインズカフェ。J&B。紛れもないロックバンドの熱気だった。

その後CD-Rに印刷したメールアドレス宛てに、

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先日のスタパ、来てくれてどうもありがとう。
CD聴きました。あまりのクォリティーの高さに驚いています。ギターのテクニックも
さることながら、楽曲の良さにも感心しています。自分の音楽をひたすら追い求めて
いる吉野くんを感じ取れるCDでした。
それにしてもギター上手いね〜ロックギターの王道を弾きこなしているね〜リズムも
ばっちり!
このCDはインディーズだけど、どこかにもって行ったりしてるの?大勢の人に聞いて
もらいたいね。
吉野くんのライブは出来ないのかな〜。ライブもとっても大事なパフォーマンスで
す。予定とかあったら教えてください。
何か協力できることがあったら、いつでも言って下さい。それではお互いギターリス
トとして頑張りましょう。またね〜!
                                      

                          浅野祥之
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いつだって褒めてくれる人とは解ってた。でもそれでも先生に褒められると嬉しかった。バカ正直なオレは、いつかライヴに来てくれると信じて、また褒めて貰いたくて、それを目標にして来た。


その後も何度も連絡させて貰った。J&Bの曲で解らないコードとかも直接訊いた。コードよりも、先生と話せる事が嬉しかった。自慢だった。いつだったか、先生が譜面をFAXで送ってくれようとした時、オレのFAXが不調で使えなかった。そしたらスグ渡せるよう間近なライヴに招待してくれた。言えばいつでも甘えさせてくれる人だった。

ちなみにそのライヴは、SALT BAND。六本木スイートベイジル。お店スタッフにその旨伝えると、席を用意してくれていた。扉を開くとライヴハウスと言うより、ホールだった。全席指定。各テーブルには食器が並ぶ。ライヴもトップスタジオミュージシャンらしい洗練されたサウンドで、その後CD化もされたライヴだった。実はお願いして知り合いの女の子も入れて貰っていた為、かなり鼻が高かった。
ライヴ後、譜面を受け取る為待っていたのだが、フロアでサイン会が始まる。長蛇の列。どうしようと思っていると、先生がキョロキョロしオレに気付く。「あ、ごめーん、ちょっと待ってて〜」ホールに先生の声が響く。オレ鼻高々。


ライヴ前に連絡すれば入れるようにしてくれる。でももう甘えてる歳じゃない。いつからか、ライヴ後にメールするようにした。が、それに気付くとスグ電話をくれる、そんな人だった。


ちょうど30になった頃、緒事情で埼玉の実家に帰る。先生のライヴにも中々行けなくなった。バンド組んでも中々起動に乗らない。先生に連絡する名目が思いつかない日々が1年くらい続くと、何か危機感を感じ、狂ったようにバンドに加入しまくっていた。最大で同時に5つ。そして今の2バンドに至る。でも先生に報告するにはまだまだ・・。


すると去年2月突然先生の方から連絡をくれた。

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吉野く〜ん元気! 浅野です。おじさんは今、ブルース街道まっしぐら!ですよ。
たまには顔出してください〜2/21次郎吉、The Blues Power(永井ホトケ
隆、沼澤尚、松原秀樹、浅野祥之)基本はベースレスの3人ですが今回はベース入り
ます。全編オーセンティックなドスドスのブルースです。 時間があったら〜
それではまた!
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めちゃくちゃ嬉しかった。とにかく都合付け行ってみると、J&Bよりも更にレッスンに直結する内容だった。何か自身の弾くべきギターを悟ったようにも見えた。その後ブルースパワーには極力通うようにした。


それから数ヶ月後、青木氏死去。ギターの質問と併せてこうメールした。「初めて六本木ピットインに先生のライヴ観に行った時が青木さんでした」って。「残念です」、「先生にはこれからもまだまだ素晴らしい演奏期待しています、頑張って下さい!」って。でも、特にそれには触れない返事が来ただけだった。


最近の先生の活動振り返ると、北海道とか東北とか広島とか・・東京じゃほぼジロキチだけ。とにかくブルース三昧。慣れないブログには行く先々で携帯から撮った風景載せたり、家族の事とかプロレス観に行ったりとか。

こんなオレにまで先生の方から連絡して来てくれたり、青木さんの時の事とか、最近の先生の生き様とか振り返ると、本人は長くない事知ってたようにも思える。


最後に見たのは先月のブルースパワー。ジロキチ。とてもスタジオ系ミュージシャンとは思えない荒ぶれたソウルフルなプレイだった。演奏中常にホトケさんを意識する眼光もハンパじゃない。確かに痩せてた。でも精悍だった。

何日か後、電話もした。「あれ〜どこで観てた?」いつもの調子。あの音をマネたくて、アンプセッティングとかも色々訊いた。「4月1日CD発売だから、是非来てよ」って言われて「はい!そのつもりです!」なんて言っちゃったけど、行けなかった。。



4月21日、バンド練習。その後ライヴハウスの下見にも行って来た。先生も呼べそうなお店だった。帰りが同じ方向のバンドメンバーと電車の中、先生の事話してた。5月5日一緒に行こうよって話してた。

帰宅して、ジロキチのHPチェックして、、、

先生のHPみたら

「今までありがとう」とか「お疲れ様でした」とか


意味わかんないよ先生




先生の活躍がずっと支えだった。自慢だった。いつか上手くなったらライヴ報告したかった。また褒めて貰いたかった。もっと甘えてれば良かった。もっと図々しく近付いてれば良かった。


こないだの電話の切り際「がんばってね」、それが最後。


何か書き殴れば落ち着くと思ったけど、受けとめられると思ったけど、

締めの言葉が思いつかない。




2007.4.25        back